僕らはいつも渇いている

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先日友人に言われた言葉だ。

「僕ら(僕も君も)渇いてるからね」って。

言われた瞬間、よく理解できなかったのだが、詳しく聞いてよくわかった。

いつからか、リア充という言葉が一般化した。

ネットやSNSなどの匿名性の高い世界で、日常とは別人格を出している人達が、日常の充実感を明け透けに晒す人たちに対して、皮肉も含めて使い始めた言葉だと思う。

私もよく、リア充に間違われるのだが、私は自分がリア充だと思った事は一度もない。

まぁ、もしかしたらこの世の中に於いて、自分をリア充と自認している人は居なくて。

傍目には充実してそうに見える人にも何かしら人には言えない悩みや、満たされない欲求や孤独感があるものだし、そもそも自己と他者の相対比較で、他者に向けて使う言葉だからな。

何に渇くかは人それぞれ価値観次第なのだが、少なくとも、私(彼の言葉で言えば僕ら)はいつも渇いている。

思想の肥大化は乾きを催す。

私自身、何に到達したいのかわからないが、常に自分の思考と終わりのない壁打ちをしている感覚がある、まるで無音の部屋で行うスカッシュのように。

たまに、水中分娩の話のように、打ち付けた点と点が手を取り合い、辺ができて面となって目の前に広がる。

その時に一時の充足感と多幸感が訪れるが、そう長くは続かない。

その面に手を伸ばした途端にまた手元には点が残り、次の壁打ちが始まる。

結構、体力、使うんだよね。

また綴るけど、壁打ちの部屋の扉を開け閉めできるようになってからは、だいぶストレスが減った。

それまでは、私の壁打ちを邪魔しにくる情報が多かった。

赤い球でスカッシュをしたいのに、四方八方からいろんな球を投げられている感じ。

大事な軌跡は追えないし、集中はできないし、そもそも要らない情報が多すぎ。

同じように、外部要因(無責任な助言、情報多寡、他人の価値観とかとか)に翻弄されている人はたくさんいるんだろうなと思う。

思考の癖の矯正と、心の扉の開け閉めは、習得したほうがいい。

そうすれば、自分に必要な乾きだけが見えてくるから。

(おわり)